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ちょっとあることでのテスト投稿

戦国時代にいた、粕谷源次郎という男の話をします。

彼は酒田三十六人衆という、豪商の頭であった。

当時は商人といえども同時に武士であり、そして同時に氏神を祀る神社の神主でもあったという。さらにある程度の自治権もあったようだ。堺も商人が武士団を組んでいた。


さてさて、粕谷源次郎は機転のきく人物で、まだ酒田が上杉領の時にある諍いが起こったり、しかし彼の機転により事態は収集した。

その事の顛末を石田三成に訴えて、秀吉の知るところとなり、ついには諍いで損失した米を上杉の重臣・直江兼続に弁償させたという。
さらには秀吉からその手腕を買われその後は海上警備を仰せつかったという!

なんとも痛快ではないですか!

歴史上での文献には名も知られていない人物が秀吉を動かし、兼続に弁償をさせた。

ぐぐってみると最上川の水路を整備した人物としてわずかに紹介されているだけですが、
酒田市の資料館の所蔵の地方史に上記の話が載っていました。

粕谷源次郎

地元の図書にしか出てこない面白いエピソードはたくさんあるんだろうなあ・・・・。


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歴史

成実記の原本

2014/07/25 Fri 17:11

現在、政宗を知る上で、重要な位置づけにある資料が

「成実記」です。


そうです、タイトルまんま、成実が書いた伊達政宗関連の記録です。

現在資料として読めるものなどは書き写しで、原本の存在が定かではありません。


書き写した際に、当時の伊達藩にとって都合の悪い箇所は抹消、捏造、言い方を変えるなどの作業が少なからず行われていたと思います。

ってことは、原本は証拠隠滅で燃やしたのかといえば、それはなさそうです。
憶測ですが、貴重な当時の記録(しかも藩祖)を簡単に破棄したりはしないでしょう。

でも容易に閲覧できる状況にはしない、
例えばお母さんに見つからないようにエロビデオをカバーだけ普通の映画にしておくなど(バレバレだがな)、といったことはないのか?

表紙を差し替えて、わからないように保存しているってことはないんでしょうか。


古くからのおうちに暮らしていらっしゃる方、
蔵に眠っている紙資料、捨てちゃダメよ!!!
なんだったら部長がもらいに伺います。(読めないけど)
歴史

胞衣

2014/07/23 Wed 00:37

先日、「日本の歴史を読みなおす」網野善彦
という本を読みまして、いや、まだ読み終わってはないんですが・・・。


興味のあるところだけを、ざっくり噛み砕くと、西日本と東日本は平安以降違う文化をたどっているのではなかろうか、という印象です。

気になったのが「胞衣」の扱いに関する記述です。

胞衣とは、えな、と読み、ま、胎盤です。

出産時に出た胎盤を、かつては胞衣壺に入れて大事に埋められたようですが、
西日本はこれを「穢れ」の一種(ばっちいものとかそういう意味ではないので、くわしくは本を読んでね!)として遠ざけて埋め、東日本ではなるべく人が踏める戸口や辻に埋めたというのです。

軽くぐぐってみると、景勝の誕生の地、樺沢城には胞衣壺を収めた胞衣塚があったりしています。

では政宗の胞衣壺はどこに??


これが見つかったら、そこが政宗誕生の場所、ということにはならないかしら~~~。
すでに見つかっていたら、勉強不足が露見しますが、ここは素直に教えてくださいと頭を垂れる部長です。
歴史

だて部とは。

2014/07/17 Thu 14:45

え~、16日の生放送をご覧になった方は、周知の通り、時間切れのぶつ切りで終わってしまいました。
だいたい部長のせいです。
お詫び申し上げます。

しかし、あまりのラストに、放送が終わったあと演者3人でゲラゲラ笑っておりました。

さてさて、放送で部長がお伝えしたかったことを改めて文字に起こします。

「伊達家」とは、

まず人であり、
日本に住んでいて、
東北の雪が多いところに領地があり、京とも海外とも離れている。

歴史の考え方3



動力は人力や馬など、衣食住を賄う材料は、そのへんに生えているもの、埋まっているもの、人工的に作られた田畑など。
歴史の考え方2

その条件でどうやって「伊達」を経営し生活をしていたのか、と
大きな目線から考えると、特別な時代の知識がなくとも見えてくるものがあるのではないかと、私は考え、お伝えしたかったのです。

例えば、伊達家のレシピなどは文献にも見られますが、その食材はどういうルートを経て、政宗達の口にはいるのか、ということも考えてみます。
歴史の考え方1

地場モノがメインと思いますが、これらの食材を大名などの人が大勢いる屋敷へ毎日運び入れたりしていたとすると、屋敷への往来はどうだったのか、商人なども出入りしていたのか、だとすれば山城のてっぺんに屋敷があるよりも、麓にあったほうが便利で、やっぱり、屋敷は平地にあったんじゃないか、とか考えてみたり。


歴史なんだけど、歴史を排除して普通に考えてみる。

そんなことを放送でお伝えしたかったのですが、おそらく言葉足らずで、ここで補足いたします。



雪深いなら、冬はソリで重たいものでも楽々運べたんじゃないかとか、
雪で城が埋まると空堀も何もあったもんじゃない、かんじきはいたら入り放題なのでは?とか、
夏場に肉や魚を保存するための氷室はなかったのか?とか、
冬は地下のほうが暖かいのに、屋敷に地下構造が見られないのはなんでだろう、とか、


色々疑問が湧いてきます。


年表も相関関係も不要な、ただ、生息した地の条件だけで考えてみるのも一興です。




それは私の考えです。

色んな目線で、皆様の考え方が交わることにより、各自一人では思いもつかなかった発想から見えてくる伊達家の歴史をまとめて、共有し、記録を残したいというのが、「だて部」の真意です。
7月26日に、1回めの部活があります。
意見したい方、こんな考えはどうかな、みたいな小さいことでもお持ちの方は、ぜひご参加くださいませ。


詳細はこちら
http://sigechannohe.blog.fc2.com/blog-entry-562.html


雪で埋まった館山城
館山城-3
まだ雪は少ない米沢にて・・・。


歴史

源頼朝の墓

2014/06/17 Tue 22:41

鎌倉へ所用で行ってまいりました。

修学旅行生で混み混みです。


さてさて。
伊達家が好きならば全ての始まり、源頼朝を知っておく必要がありましょう。

伊達の祖は頼朝の家臣団で出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられる。
そんな初代・朝宗は頼朝と仲良しさんで、自分の娘(大進局)を頼朝の側室にしました。

娘さんは男子を産みますが、正妻政子の怒りを恐れてひっそりと暮らしたという話が残っており、
伊達家と源家のサラブレッドはここでおしまいになってしまいました。


初代・朝宗は頼朝の奥州合戦で功をあげたとして、今の福島県の伊達郡に領土を与えられ、以降「伊達」を名乗るようになりました。
ちゃんちゃん。



そんな、頼朝さんのお墓です。
鎌倉にあります。
源頼朝墓

ほとんど人はいません。
観光客はここまであまり来ないようです。

とはいえ、しっかりと道案内もでているし、マップにも載っています。
その、脇の険しい山道を少し行くと、鎌倉幕府に協力的であった毛利さんと島津さんと大江さんのお墓がひっそりとあります。
毛利家の墓

近辺には毛利家の家紋がいっぱいです。
が、ますます人はいません。

更にチョット外れたところに三浦氏のお墓もあります。
三浦氏の墓
ほぼ秘境です。


後で調べたら、三浦義村という人のお墓でした。

三浦義村のおじいさんが三浦義明で、悪源太義平♡のおじいさんです。
悪源太義平とは誰!とおっしゃるうさぎさん、部長がはるか昔、歴女になったきっかけともいうべきお方です。
伊達家を追っかけるず~~っと以前に好きになった人物です。
源頼朝のお兄さんです。
興味ある方はググって下さい。



そんなこんなな、源頼朝。いい国を作った源頼朝。

お墓はあれど、今ある場所は後から移動したものだそうです。
よくある話ですね。

では、遺骨はどこにあるのかと尋ねたら、現在のお墓のある場所から南へ約400メートル、
鳥居はありますが、とくに看板もなにもない小さな山でした。
源頼朝の墓

もちろん本当にここに遺骨があるかははっきりしませんが、
本来の頼朝のお墓はここの山にあったんだそうです。



その山の麓に所用でおじゃましておりました次第です。

鎌倉もまた、奥が深くて簡単に巡り終える場所ではなさそうです。




歴史
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