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米沢城の間取りと江戸屋敷

2013/02/04 Mon 22:27

居城の間取りが知りたい部長です。

間取りオタクなのです。



さてさて、ずっと前も同じ事をつぶやいたところ、独眼竜正宗の中で米沢城の間取りを紹介していたよと聞いて、Vを借りて見ました。ほひー!ありました!想像ではあるけれど米沢城の間取りが・・・。しかし広いのか、狭いのか、よくわかりませんでした。

先日もTSUTAYAで2度めの独眼竜レンタルです。

そしてちょっと自分でも描き起こしてみました。
米沢城の間取り

うーん。
やはり広いのか狭いのか・・・。

後年の仙台城や、片倉家の屋敷に比べると狭いです。

輝宗のプライベートスペースは8畳間くらい、
けど奥座敷があると思うので、そちらが本当のプライベート空間と思われます。

軍議を開く大広間もそう広くはないです。
嫁を取った時の大規模な宴などはどこで?

梵天丸の部屋は6畳くらいが2つ。
しかし小十郎とか喜多はどこに?
側の長屋でありましょうか。

トイレと思しきものがひっついてます。

風呂は?
城主と息子と妻、側室は風呂も別なのか?


布団や普段の着替えはどこに?
押し入れがあったのかしら。納戸があったのかしら。

身の回りを世話する小姓や側女が寝泊まりしていたところは?

厩はどこに。


親(晴宗)は遊びに来た時には泊まったりしていたのか?
大内定綱のように挨拶にやって来る近隣諸国の小大名や領主はどこに泊まっていたのか。
城内とも思えないので、寺?旅館代わりの陣屋?
いや、城内にもそうした部屋は通常あったのか。

敵かもしれない他の城主を泊まらせるだろうか??


逆に政宗たちが戦の先で泊まっていたところは
家臣の城だったりしますが、領主の間、なるものがあるのか。

今まで見学した昔の家では、格上の人間が泊まる部屋がありました。
が、普通の座敷です。

ふすま1枚で隣は囲炉裏だったりします。


どうしても江戸時代の参勤交代の豪華ホテルにしか殿様は泊まらないイメージが植え付けられていて、戦国の戦出張時の彼らの生活ぶりが読めません。
信玄はプレハブ巨大仮設陣小屋を作っていたらしいですが。

城と屋敷、
次々移る居城、小浜城もそう広くはないけど政宗は1年くらいそこを拠点にしていたし。
屋根と壁があればそれだけでよかったのかしら。

やっぱり東北時代の伊達家は結構な質素生活だと考えてしまうのです。

そうして、秀吉の豪華さにやられて、立派な大広間を京都や伏見の屋敷にも建造し、そして
仙台城のキンキラキンの大広間、それに付随するような江戸のキンキラキンな桜田屋敷になると思うと、
もう、ね。



仙台城の間取り図は残っているので、それを基に、江戸屋敷はどんな感じだったのか、
「伊達政宗最期の日々」のなかの屋敷の描写に照らして再現をこころみたりもして。

政宗が亡くなった部屋の場所を日比谷公園内に特定してみたいのです。


ところで、年末にこのような本をいただきました。
昭和住宅の間取り
昭和6年の住宅間取り特集です。

主人の部屋は小さく、客間と次の間がメインです。

大正~昭和初期の大きな家は居城と現代の間取りとの中間地点かもしれません。


数的な本を有難うございます~~!!!
他にも着物の縫い方の古い本をお借りしてます。
返却はもうちょっと待っててくだされ!
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武家屋敷

行ってみたい武家屋敷

2012/10/06 Sat 12:59

秋田に武家屋敷が結構残っているので
行ってみたいです。
角館武家屋敷
http://kakunodate-kanko.jp/bukeyashiki.html

北の武家屋なら、時代が下がっても政宗や成実の暮らした屋敷とも共通するデザインがありそうです。

秋田は佐竹義宣が飛ばされた先です。
政宗と戦っていた時には54万石、全国第8位の領主であったが、家康の命で秋田への国替となりました。

佐竹義宣といえば、毛虫の前立てです。
しげちゃんは毛虫をまっすぐ上に立てていますが
義宣は横に寝かせてさらにリオのカーニバル的に鳥の羽もふっさふさです。

ちょっと負けたような気もします。
ギリギリギリ。はぎしり。


しかし!
前にしか進まぬ強い意思があるならば、ピンとおったてているしげちゃんは実に雄々しいのです。
残っていないだけで、秀吉も真っ青な全身リオのカーニバルな孔雀の羽をまとっていたかもしれません!
なんでもありな戦国時代!
ビバ!!



そしてなんでもありな戦国自衛隊(本物)

う~ん、素敵♥
武家屋敷

成実の居城、大森城

2012/10/04 Thu 02:38

大森城はいかなる姿だったのか。

専門的な知識はないものの、
今まで見てきた戦国の城をまとめると
本丸御殿はこのくらいの規模かなあ、と、スケッチしてみました。

大森城想像
城の遺構とか、そんなものは全く関係ない想像図です。



大森城は、南北朝時代に始まり、それ以前は古墳であり、
成実のパパ実元が15歳の時に稙宗から与えられた城です。

その後に上杉に養子に入る話があり、準備をしていざ出発という時に
「まちなさ~い!」と、晴宗が阻止、伊達家の内乱が起こり、結局実元は大森城に住み続けたようです。

そして結婚して、成実が生まれたのは、築25年目のことです。


どうも、米沢は伊達の本城ではなかったという話も盛んだし、
政宗が19の時に住んでいた小浜城は想像する「御殿」とは程遠く、
やっぱり、仙台城が出来るまでの彼らの城は、いつ捨てても惜しくない「立派な砦」と、考えたほうがいいような気もします。

小浜城の復元図
小浜城q


この時代は地方領主がそれぞれ力を持って独立していたので
城の規模も、トップの伊達輝宗、政宗の暮らす城(屋敷)が一番立派、という考えは捨てないといけません。


城がバラバラに点在して主要領主が暮らしていたので、いざ合戦になると、まず家臣を集めるのにえらく時間がかかったらしいです。

信長がでかい城を立てて、城下に主要家臣を集めて暮らせるようにしたのをきっかけに、秀吉も京都に武家屋敷を作り監視し、徳川はついに強制的な措置として参勤交代が出来た、といった経緯がよくわかります。



さて。
大森城はその後、成実が二本松城主となり、かわって片倉小十郎が大森城主になります。

奥州統一に向けて政宗が動いている5年間、大森城は重要な拠点として機能しています。
政宗もしょっちゅう泊まっていたようですし、
そうすると、本丸御殿は広間での会議スペースがあり、食事を用意でき、
主人家族の他に小姓お女中も寝泊まりでき、さらに殿も寝られるとすると、こんな規模かなあ、と。


戦国の城(御殿)は、人数の割には狭いと思いますがいかがでしょうか??


うむ!真面目だった!

武家屋敷
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