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愛姫ブランド

2014/10/13 Mon 03:07

装束のことを調べていると、こんな記述がありました。
平安時代の貴族が着てる装束は妻の負担だった、っと。


ほほう。


これが時代が下り、江戸に入ってどうなったのかは、書いていなかったのですが。



愛姫は徳川建献上する着物も縫っていましたが、
政宗の着物も縫っていたと思います。

愛姫のセンスは独特だったと、何かの(覚えておこうよ、部長)本で読みました。

江戸時代の着物には文字が刺繍で入っているものが多く残っています。



ひょっとして、政宗の着物には「まさむね」と書いてあったんじゃあないかと思ったり。
それで、皆から「政宗」と、名前で呼ばれていたんじゃあないかと思ったり。

愛姫と政宗



五郎八姫の名前も意外と愛姫の命名かもしれないですね。
「女など産んではおらぬ」と、言い切るくらいには気丈な嫁だったと勝手に想像しています。
オスカルのように育てなかったのは、フィクション好きには残念至極。
しかしこの場合はお江を守るってことになるのかしら??
「江戸のバラ」

革命は起きず、徳川アンタイの世が続いちゃいますが。

そして買っちゃいました、
40年ぶりの最新刊。
ベルサイユのばら11巻
思ったよりも当時の絵柄に合わせていたのが幸いでした。

以上、どうでもいい記事でした。
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政宗の歴史

木村宇右衛門と松平伊豆守

2014/09/11 Thu 17:42

伊達政宗最後の日々
ご存知、
「伊達政宗、最後の日々」小林千草著 講談社

何度読んでも泣いてしまう本です。
小説ではなく、政宗の小姓・木村宇右衛門が残した政宗の死の間際の記録です。

この本には、政宗の江戸の屋敷での様子が詳しく書かれてあり、
部屋に関する記述から、江戸屋敷の間取りを読み解くヒントになりそうです。


焼火の間、御座の間、紅葉の間、常の寝所、愛姫の別棟、など部屋の名前が出てきます。
また、公務としてのスペースを「表」、私的スペースを「奥」と呼び、その間には長い廊下があり、なんと54間とあります。
1間1.8mとして、約100mです。
まっすぐ100mではなく、大名屋敷の構造からしてくねくね曲がって100mでしょう。

それにしても長い!
政宗がよたよたと杖をついて歩くのを見かねて、息子が「籠を使ってはどうか」といいますが、政宗は断ります。
足の筋肉もほとんどなくなっているのに、です。
100m歩いて「奥」の棟に到達しても、更に何メートルも歩かないと、くつろぐ部屋や「寝所」ヘは到達しません。
広い屋敷というのも不便なものです。



この本の描写で一番気になったのが、
政宗死の3日前、3代将軍家光公の秘密の御成があった際の記述です。

「御座の間」での政宗と家光の対面が終わり、家光が部屋を退出した際に、政宗は小姓・木村宇右衛門に
「上様が屋敷から出るまでの様子を見て報告せよ」と、命じます。


言われた宇右衛門は廊下を走ると、「取次の間」の中央でひれ伏す松平伊豆守(松平信綱)にどこへ行くのだと呼び止められ、政宗に命じられたことを告げると、
「あそこにまだいらっしゃいます」と言って、自分の袖のたもとを上げて様子を見るよう宇右衛門にいいます。
そして再びひれ伏す松平伊豆守。伊豆守よりも更に深くひれ伏す宇右衛門。

宇右衛門は伊豆守の袖の隙間から、遠くにいる上様と、側でひれ伏す忠宗を見ることが出来ました。

というシーンが有ります。



これがどうにも理解できない。
ひれ伏す身分の高い人(松平伊豆守)の袖の隙間から、更にひれ伏して向こうの様子を覗き見る。
どういうことだ!??

伊達政宗の江戸屋敷1

屋敷の構造はうねうねして、ふすまや障子が開いているので中庭を挟んで縁側に上様がいれば、取次ぎ部屋からも見えるのだと、理解して。


しかしおかしい。なにも袖の隙間から見なくても宇右衛門にも見えるじゃないか。
二人して近くで向き合うのもおかしいです。


が、伊豆守がひれ伏しているのは、病気の政宗のいる部屋の方角に対して治癒を祈りひれ伏しているのではなく、君主である上様に対してひれ伏していたとすれば、向こうに見える上様に尻を向けるのは不自然だ。
ならばこういう状況か!?

右衛門覚書



結局どういう位置関係なのか不明ですが、伊豆守は自分から袖を上げて、この隙間から上様をご覧になり、政宗公に様子を報告するといいですよ、的なことを身分の低い小姓に言っています。
小姓風情には顔を上げて直接上様を見ることが許されていないので、伊豆守の優しさから、そっと覗き見るよう宇右衛門にうながしたのでしょうか。

それでもなんだか不自然です。
他に大勢の家臣がいたのでしょうか。
宇右衛門覚書1

ちょっとしっくり来るかな?


肝心の出典元である木村宇右衛門覚書の本が手元にないので、「伊達政宗最後の日々」では記述が省略されて紹介されいるのかもしれないです。



ともあれ、宇右衛門は上様の様子を政宗に報告できて、政宗は感激します。



この時上様がいたのが「紅葉の間」の縁側。
上様がいるということは、御成に関連した部屋で、御成玄関口に通じる部屋かもしれません。
仙台城における「紅葉の間」とは、まさに御成の玄関口にある部屋です。

それが江戸屋敷と同じかは不明ですが、
そんなところからぼんやり政宗の最後の屋敷の構造を想像してみるのも良いのではないでしょうか。

読書の秋、食欲の秋、間取りの秋、です。



政宗の歴史
たまにつぶやく、政宗の江戸の上屋敷に関して。

政宗の暮らした江戸屋敷は今の日比谷公園で、その敷地のどこからどこという面積は正確にわかりませんが、古地図からして、だいたい現日比谷公園の敷地の1/4くらいの面積かなあと思ってました。
が、もしかしたらもっと広いかもしれないです。

江戸での政宗時代の屋敷の間取り図は残っていませんが、仙台城の本丸御殿はだいたいわかっていて、
「仙台城」学研に出ている図版を拡大してトレースするとこんな感じです、
仙台城
クリックで拡大

トレースすると分かるんですが(しなくても分かるんですが)、広い。
黄色が大広間で、緑が公的スペース、ピンクが私的スペースと思われます。
点線は塀があったとされるところです。

これを仙台城に当てはめると、正確な縮尺は不明ですが、おおよそこんな感じです。
仙台

同じ屋敷を江戸の上屋敷にあったとすると
江戸

こんなイメージです。伊達家の敷地は日比谷公園全部ではなく推定1/4くらいか。


徳川のお城においてみると
edo.jpg

おお!結構頑張っていますが、縮尺がどこかで違ったらごめんなさいませ~。
江戸城はみっちり建物が詰まっているので、面積にすれば仙台城屋敷の何倍になるんでしょう。

晩年の若林城
若林城
刑務所広い!!!
仙台城より広いのか・・・。


面白くなってきたので、色んな所に。

今の米沢城
米沢城
パンパンです。


成実の大森城
大森城
山城なので、ここに屋敷があったわけではないでしょうが。


手に入れた黒川城(現鶴ケ城)
黒川城
いい感じで入ります。政宗時代の縄張りとは違うんですが。


秀吉から与えられた京都伏見の伊達屋敷近辺(現桃山町正宗)
伏見屋敷






ついでに東京ドームにおいてみました。
東京ドーム
収まっちゃいました!



江戸の上屋敷を描いたものがありますが、正確さはさておき、
国立民族博物館にある
江戸図屏風、外桜田
http://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/edozu/layer4/pl325.html
にあるのが、政宗屋敷です。


京都西本願寺に残る唐門とよく似ています。
http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/guide01.html#ken03


豪華です。

ところで、江戸屋敷は3回焼けてます。
そのたびにここまで豪華であったかどうかは謎ですが、政宗が死を迎えた屋敷は、前年に焼けて建て替えたばかりです。
どの程度の規模だったのか、広いことには変わりないですが、建築途中の箇所もあったんじゃないでしょうか。

死の数日前、忠宗は政宗の足腰が弱っているのを心配して
公務室のある表屋敷と、私室のある奥屋敷との渡り廊下が長いので、籠でも用意しようかといいます。

最初の仙台城本丸の間取り図に戻ってみても、確かに表と奥を結ぶ廊下は長いです。
仙台城
クリックで拡大

仙台城に自分のアパートの面積を重ねたら、玄関くらいはあるかなあ。ないかもね。

政宗の歴史

鶴の汁

2014/08/31 Sun 23:18

ずっとこのブログを眺めておられる方は、なんとなくご存知でありましょうが、

部長は政宗の料理に出てくる「鶴の汁」というのが気になって仕方ありません。


で、偶然見つけたこの本の中に「鶴の汁」に関する記述がいっぱい出てきました。
RIMG4936.jpg
江戸料理史・考 江原恵著 河出書房新社 1986年出版

この本には、政宗が江戸屋敷で家光を饗応した時のメニューをはじめ、
毛利邸の御成、朝鮮の使者のおもてなし、信長の、家康接待のメニューなどが書かれており、非常に面白いです。
他にも当時の食材の流通とか、茶の湯のメニューとか、内容盛り沢山です。

家光を饗応した時のメニューは、ネットや他の書籍でも見ることが出来ますが、
この時に警備にあたった兵数百人にも饅頭付きのお重が出されていたことなども書かれています。
どんだけ金持ちよ、伊達政宗!!

他にも政宗が台所に立ってあれこれ指示したり、今までの形式的な「食べない料理」をなくしたりと、政宗の特異性もよく描かれています。
史実とちょいと違った記述もありますが、まあ、料理に焦点をおいた本なのでそこはご愛嬌。
政宗好きにもお勧め本です。

で、鶴の汁です。

家光に対して政宗はメニューの中に「鶴の汁」を盛り込んでいます。
当時でも「鶴」を食べられるのはごく限られた身分であったようです。

つまりは特別メニュー、ってことです。

他の鳥と見分けをつけるために、「鶴の筋」を添えていたこともあったとか。


鶴のレシピ

肉部分は汁物
・せんば・・・煎酒(いりざけ)と塩などで炒煮(いりに)にしたもの
・さかびて・・・酒にだしと塩を加えて煮立て,それに刺身を浸しておくもの
・その他色々
ももげわた(内蔵)は吸い物
骨・・・薬に使用

また、和物、煮物、卵も食用に。

鶴汁作り方(意訳)
 だしに鶴の骨を入れる。
 さしみそにて仕立てる。指し加減は大事!
 つまはその時時で自由に、きのこはどんだけ入れてもいいよ。
 いかなる時も筋を添えよ!
 すいくちにわさび、柚子。
 始めっから味噌で煮てもよし、すましもよし!

部長的には骨ガラと塩だけの白湯スープで具は鶴肉オンリー、みつばを乗っけて食べたいです。



鶴の薬効
肉、骨、血、内蔵、卵、すべて効能があるとされ、
血液改善、虚弱体質の滋養強壮、解毒、外傷、痔に効くとされていたようです。

また、頼朝の時代から鶴は贈答品としても利用され、徳川将軍より鶴を拝領できたのは徳川御三家、そのご隠居、嫡子および加賀、薩摩、仙台藩の当主だけ。
水戸黄門も鶴食ってたな、これは・・・。

えぞの松前藩は、アイヌから格安で鶴を仕入れ、高額で本土に売って利益を上げていたという話もあります。
鶴とは話がそれますが、アザラシやラッコなんかも出荷してたようです。
更にそれますが、幕末に鶴は庶民の食べ物となり、乱獲され絶滅寸前になってしまいました。明治20年に鶴猟の禁止令が出されます。

丹頂鶴よりはマナヅル、ナベツルが美味しいとされ、保存用に塩漬けにしていた。
食用に飼っていたとも。
宮中では正月に「鶴包丁」という儀式があった。

鶴は庶民には手がでないので、江戸時代には豆腐で作った「つるもどき」があった。
雁に似せた「がんもどき」と、同種類と想像できるが、今はツルモドキ、なくなっちゃいました。惜しい!


そんなこんなな、鶴汁です。

「伊達家の風景」に、多分、家光の饗応メニューが再現されて、写真があったはずです。
鶴は多分他の肉で再現したと思われます(本がちがったらすいませ~ん!)






そもそも美味いんでしょうか。

鶴の汁


鶴の恩返し。
こんな話じゃあないですよね?
政宗の歴史

直江兼続VS伊達政宗

2014/07/20 Sun 19:09

兼続と政宗は仲悪いエピソードがいっぱいです。

政宗が小判を見せびらかしていたら、兼続は下品だと言って素手で触らなかったとか、
廊下ですれ違った時に直江が政宗を無視して通り過ぎたところをとがめたら、
「政宗とは気が付きませんでした、いつも逃げる後ろ姿しか見たことがなかったので」
と、言ったとかなんだとか。

また、上杉家にお呼ばれされたところ、厠に伊達家の陣幕(松川合戦で伊達家が負けた時に奪ったモノ)が置いてあったとか。

これらは逸話だとは思いますが。
仲が悪い印象は強いです。

しかしながら、輝宗様が生きていた時代には上杉謙信とも誼を通じていたようですし、
政宗も北条家や上杉家とは同盟していたといいます。


一体いつ仲が悪くなったんでしょうか。


兼続があの前立てに変えてからだと面白いなあ、と、思いました、まる
直江兼続と伊達政宗


政宗の歴史
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