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つるもどき

2014/09/16 Tue 21:13

前回、鶴の料理に関して色々書きましたが、
映画「武士の献立」を見てたら、冒頭でなんとツルモドキの話が出てきました。

ツルモドキとは、鶴は高価なため、もどきな料理が江戸時代に豆腐で作られたというもの。

映画によれば
ツルモドキの作り方は豆腐ではなく、

鶴・・・ブリを乾かし削って酒で戻す
出汁・・・蝦夷の昆布だしにみりんを少々
醤油は薄口

だそうです。

ブリの乾燥させたものが手にはいらないので、結局は再現不能です。
うむ。

鶴。

その身が美味しいというよりは風味を楽しむものだったらしいが、気になり申す。
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江戸の歴史

北海道の江戸

2013/08/08 Thu 21:41

北海道にも「藩」はあり、遡れば室町時代には既に蝦夷地に定着していたと知りました。そんなに昔から!?


アイヌと衝突は幾度かあったようだが、
イメージするほど仲が悪いわけでもないのかしら。

日本人(和人)が好き勝手アイヌを侵略したイメージがあったのです。


江戸の始まり、松前藩を支配していた松前慶広は家康からアイヌとの交易独占権を許可されていて、
アイヌも本土へ商売にやってきていたようです。

どうもアイヌのイメージが土着の神々と交流し、商売とは無縁な存在のようなイメージですが、そんなことも無さそうです。ぐぐると身分制度があり、金持ちと奴隷にわかれていたんだとか???えええ!???





北海道はロシアとお隣です。
当然ロシア人もやってきます。
ロシア人とアイヌは交流があったようです。
それを松前藩は隠していましたが、バレました。

そこで、対ロシアの名目で仙台藩と会津藩に北方警護の命令が出ます。
1807年です。
2000人が函館やら国後、択捉に陣を敷いていたそうです。


といった事が展示してある北海道白老の
仙台藩白老元陣屋資料館です。



行ってないです。

すぐ近くの虎杖浜温泉で一泊していたというのに・・・・・・・。

帰ってきてからパンフレット見て気が付きました・・・・・・・・。



北海道には仙台藩の足跡がいっぱいです。



開拓を想像すると明治のはじめに吹雪の中、未開の地をひたすら進んだイメージですが、既に大勢の人が往復していて、
アイヌも住んでいるし、アイヌは小屋で火を囲って音楽を奏でるだけの人、でもなく、普通に商売していたようですし、和人に対して道案内とかでがっぽり稼いでいそうだし、既に道も宿もあったと思います。
うーん。
多分、ですけど。

詳しい方、教えて下さい。


江戸の歴史

江戸城の謎

2012/09/16 Sun 22:54

さて。

行って来ました、江戸博物館で今週末まで開催の「二条城展」

二条城展



二条城とは、見てそのまんま、お城です。
そして日本に3箇所しかない本丸御殿の最高峰です。

そういった情報は漠然とあるくせに
しかし、脳みその中では「二条城」とは、京都にある御所の一部、と言う分類でした。

とうぜんですが、全く違いました。
徳川家康が1603年に建てた京都のお城でした。


・・・・・・・・へえ・・・・・・・・・・。








そんな部長が見に行った感想。


徳川家が天皇家に嫁を出した、これはどや!凄いだろう!さあさあ、驚け、崇めろ、

徳川家に天皇が遊びに来たよ!どえらい時代や!他の武将に真似ができるか?さあさあひれ伏せ諸藩の大名どもよ!!

この2大イベントで徳川家の威光を世間に知らしめたプロデュースの舞台、
それが二条城なのか、そう思ったわけです。


展示のふすまは、キンキンキラキラ綺羅びやか、こりゃあ、ひれ伏すわけです。


そして。
不意に疑問に思ったのです。

徳川本家本元の江戸城にはこの遙か上を行く素晴らしい建具や宝物で満ち溢れていたはず。


どこへ消えたのか・・・・・・。




江戸城は今は皇居になっていて、建物は残っていません。
取り壊したさい、全ては破棄されたと??


東京に江戸の文化は数多く残っているのに、
江戸城と徳川家の遺品はきれいさっぱり、消えました。
家康の銅像も見当たりません。(が、さっきググったら江戸博物館の裏手に1体あるとのこと)


戦国ファンとして、あのとんでもない全国各地の癖だらけの戦国大名たちを束ねた家康は、やっぱりとんでもなく凄いと思うのですが、東京には武将祭がないのです。

各地で土地に縁のある武将祭が開催される中、何故東京に祭がないのか。

大名だらけだった土地なのに・・・。

東京で、武将祭を!
暴れん坊副将軍・政宗だって人生の後半、仙台と半分を東京で過ごしていたんだから
あっていいと思うのです。


なぜこうも東京は家康をフューチャーしないのか、不思議です。



そんな事を一緒に行った友人と喋りながら頼んだあんこコーヒー。
珈琲に、砂糖の代わりにあんこをぶちまけて甘くしてね、と言う妙なメニューなり。
あんこコーヒー

別にうまくはない。




初スカイツリー。おっきい・・・。
RIMG7604.jpg
江戸の歴史
前回の続きです。

「仙台藩の不通と忠臣蔵」

面白かったです!


そして結論から言うと松の廊下事件は

やっぱり政宗のせい

でした。



浅野家と伊達家の絶交を何とかしたい、
これをうまくまとめれば、自分はさらに株が上がる。

そう睨んだ、幕府のエリート家老の思いつきから事件は始まります。


実は浅野内匠頭は17歳の時に同じ役目・饗応役を仰せつかっていたのです。
組んだ相手は田村右京太夫。
そうです、前回紹介した伊達・一関藩主です。政宗のひ孫で、愛姫の田村家を継いだ家です。



田村も伊達家。絶交のことがあるので、饗応役を仮病でスルーします。
急遽代理人が立てられ、この時はなんとか収まったようです。

田村はなぜかお咎めもなく、むしろ面白がられたようです。


幕府の思惑は失敗しました。


そして懲りずに仲直りをさせて自分の地位を上げんとするエリート家老が
再び伊達と浅野家に饗応役を言い渡します。命令です。
今度は伊達も逃げられませんでした。


慣例として、指南役にまずは10両差し出すよう言われた浅野は
「それは理屈としておかしい、お役が終わった後ほど差し上げます」と言い、
伊達は前回の負い目もあってか、1000両とプラスアルファを送りました。




そして松の廊下です。





なんだかんだで討ち入りを果たした浅野の家臣はその帰り、吉良の首を掲げていろんな大名屋敷前を通りながら泉岳寺へと向かいます。
とちゅう、伊達の上屋敷も通ります。

何事かと止められると
「通さぬならば力ずくでも通ろうぞ。元より死は覚悟の上」
赤穂浪士はここで騒ぎが起こって伊達家が取り潰されればいいと思ってたかもしれないです。
しかし大石主税15歳、通してもらうよう、実に立派な口上を述べます。
というか、自分が赤穂の人間なら一悶着起こします。

・・・
紳士だなあ・・・。


しぶしぶ浪士たちを通し、伊達は事なきを得、
浪士たちはみな切腹です。



伊達曰く、こっちは仲直りしようとしたのに、浅野がかたくなに拒否した、といってます。
企んだ幕府のエリート家老も、その後特にどうということもなさそうです。

そのエリート家老の兄の娘は仙台藩主・伊達綱村の正室です。




浅野は律儀な性格だったのかもしれないですね。
~先代当主の遺言は絶対である~
~慣例などおかしいことは正す~
守った結果です。




風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

            浅野の辞世の句





内容は知らなくても誰もが知ってる忠臣蔵は
政宗の絶交状が発端だった、というお話、これにて完!!



仙台・江戸学選書「仙台藩の不通と忠臣蔵」
にはもっと詳しい面白い話があります。
政宗の絶交状

興味のある方はぜひ~~。





あれ?粥の話は???
江戸の歴史

小杉陣屋

2012/06/24 Sun 21:14

鷹狩を調べていたら、家康が鷹狩の際に泊まった「小杉陣屋」という文章が目に飛び込んできました。


小杉陣屋??
小杉って、小杉?川崎市の?


こないだ、近所で鷹狩を見に行ったんですが
その時の説明に、
「中原街道は秀忠が鷹狩に行く時によく使用していた道」
というような記述がありました。


さして気にも留めてなかったんですが、
中原街道というのは、名前こそ違えど東海道よりも先に、西と江戸を結ぶ主要道路として使用されていたらしく、
家康が江戸に入った時にもこの街道を使い、その後も駿府や京都などの往復する際にも使っていた道路だそうです。

平塚に家康の鷹場があって、しょっちゅう行き来していた時にもこの中原街道を使い、たまに泊まったり休憩したりするのに使ったそうです。


なんと!
ご近所にそんないわれのある場所が!

行って来ました。
小杉陣屋跡4
ただの住宅地です。

小杉陣屋跡1

小杉陣屋跡3

小杉陣屋1
小杉陣屋跡には今は小さい祠に、誰も気に留めないような看板があるだけです。






小杉陣屋跡7

小杉陣屋跡5
小杉御殿の説明看板は、さっきの祠と離れた場所の西明寺という、お寺の入口にあります。
地図は下の。

小杉陣屋跡6

そして、住所はまんま「小杉陣屋町」「小杉御殿町」です。
ほお・・・。そういわれたらそんな住所があったよなあ・・・。

住所って大事です。




・・・・・・・・・。


まてまて。
江戸の初期には東海道よりも中原街道を使っていた??

ってことは、政宗もこの中原街道を使って江戸から大阪、京都、駿府に上がっていた??


可能性は非常にでかいじゃあないですか!
まさかの政宗が歩いた道です。
とうぜん、成実も小十郎も歩いた道です。
(馬に乗ってたとか、籠に乗ってたとか、そこはスルーで)

伊達と一切関係ないと思っていたこの中原地区に、政宗としげちゃんの足跡があああ!??


小杉陣屋跡8
御殿があったあたりのアパート

小杉御殿は家康のものだから政宗たちが使えたとは思えないですがどうなんでしょう。
そのへんの身分的なことはよくわかりません。
絆とか言ってるくらいなら、使わせてくれてもいいと思うんですが。



中原街道
これが狭い中原街道です。


兎にも角にも
昨日と違って、今日からは中原街道が
神々しく見えるのは、気のせいでしょうか。

キラリーン!!
江戸の歴史
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