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片倉小十郎景綱の所在が相変わらず良くわかりません。


片倉一族は現在の長井にある小桜城を治めていたともいい、
川西町にも片倉館があるし、片倉伊賀守が治めていたし、
同じく川西町の朴沢、小松は小十郎の叔父片倉三河守が治めていた、

小桜城も小十郎の城だとある、

政宗は小十郎に天正14年、川西町の吉田、洲島一帯の惣成敗(監督権みたいなもんか)を与えたと言い。


これだけ見ると片倉家の管理している土地は川西町から長井に点在し、景綱は長井の出身だという。

小十郎景綱の神社と言われている成島八幡はぽつんと離れている。

成島八幡3
成島八幡
代々の伊達家から庇護を受けてきた神社
政宗は岩出山、仙台に位封される度に成島八幡神社も移動した。今は仙台の大崎八幡宮と合祀し合祀されている。

大崎八幡宮10




雰囲気だけなら、ここでいいじゃないかと思う成島八幡です。

おしえて!片倉さん!

片倉
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片倉

喜多さんのお供

2013/02/14 Thu 23:24

片倉喜多は、秀吉時代に政宗から蟄居を命じられ、政宗のもとを去っています。



イメージとしては、その後いきなり白石に移り住んだかのような記述が多いですが、
そんな訳ありません。
その時、白石は上杉景勝の領地です。

ウイキには
「政宗の勘気をこうむり、国許で蟄居を命ぜられる。 以後は、景綱が城代となっていた佐沼城外に一旦は籠居し、次いで亘理城外に移り、慶長7年(1602年)景綱が白石城主を拝命されると、共に従って移住した。 そして刈田郡蔵本邑勝坂に喜多庵を構え、そこで喜多は余生を過ごした」
と、あります。


京都から佐沼へ。
誰か一緒だったんでしょうか?
全くのひとりきりってことはないと思います。
喜多さんやじさんの珍道中はなかったんでしょうか。



同じ頃、弟の茂庭綱元も出奔しています。
綱元がいなくなった時期は、1595~97年です。
喜多さんが消えた時期ははっきりしません。
成実も1595年以降出奔しています。戻ってきたのは1600年です。

この3人が一緒にいたとは無理がありそうですが、
どこかで会っていた可能性はないのかしら。


成実出奔中の行動はわかっていないので、まるで行方不明になったかのような印象ですが、政宗も、他大名も成実の行動を把握していたと思います。
でないと、上杉から誘われたり出来ないし、
小十郎だって迎えに行けません。


綱元が出奔時期、どこにいたのかがよくわかりません。
家康が同情(引き抜こうとした?)して中白鳥毛槍とか色々かさばるものを贈ってます。ってことは、どこかの屋敷で頂いたお宝と暮らしていたんですよね。妻子側室はどうしていたのでしょう。


どうも「出奔」という言葉にリアリティがなく、中学生の家出みたいなふらふらしながら身を隠していたイメージで捉えてしまいがちです。
逃げて姿をくらますこと、と、辞書にはあります。

が、ちゃんとしたそれなりのお屋敷で暮らしていたのでしょう。


喜多さんが蟄居を命じられた時、既に綱元か成実がいない時期だったとすれば、彼らの屋敷に寄った可能性はあるのではないかと思います。


やじさんとなって佐沼方面まで送り届けたり、ってことは、さすがに妄想し過ぎかしら。



伊達出奔トリオ
あれ、テーブルの足書き忘れたよ!
片倉

片倉小十郎景綱の謎

2012/12/30 Sun 15:54

「伊達家世臣伝記」と言う中に、
片倉小十郎の弟、片倉藤左衛門という記述があるのです。


しかも「智慮少キ者」、と言う有り様。


だ、誰!??

舎弟って意味だと思うけど。



*~*~*~*~*


片倉小十郎の甲冑は現存しない、と言う話ですが、
あっさり写真があったのです。

昔資料として借りた甲冑本、政宗のコーナーだけ1枚コピーした中に
堂々と載ってました。


小十郎の甲冑と思しき、雪の下胴の説明とともに掲載してした写真は政宗のそれと同じなので、
ずっと政宗の甲冑に関して説明してるんだと思って読まなかったのです。(読め!)

雪の下胴に刻まれた文字は
「雪下政家 天正13年8月吉日」
「片倉小十郎内室惣左衛門」
所有者と考えられる、と。


え?
小十郎の甲冑なの?
それとも息子の甲冑なの?
いや、天正13年なら輝宗様が死んだ年、景綱ですよね。
親子で同じもん着てたの?

どこ所有とか、一切説明がない・・・。
政宗の甲冑と脇のラインとかちょっと違うので、政宗の甲冑ではない。

景綱29歳の甲冑?
大きさの比較対象物がないのですが、少なくとも、逆三角形です。背中が大きいです。
想像するところのカッコいい景綱です。




借りた都立図書館へ行けば本文に解説があるのだろうか・・・。
全くうかつでありました。


これを見て、成実の甲冑を見るとやっぱり時代が違うような気もしてくるし。
成実の甲冑は仙台藩主8代重村によく似ています。
学芸員の見解にも成実とは時代が違うというコメントもあります。

ぬ~。
ま、素人鑑定はやめときます。

来年は政宗の本物、見に行こう。



上の階から大掃除の音が聞こえます。
ざっと掃除はしたけど、大掃除はしてないなあ。

ま、いっか。
雨だし。



片倉
クリスマスだね。
でも関係ないよ!

仕事が一段落したので、伊達関連の書籍をあさっていたら
小十郎が伊達家に仕えるきっかけが書いてありました。


wiki見たら
「天正年間初め頃、伊達家の城下米沢で大火あり、そのときの景綱の活躍が認められ、輝宗の徒小姓として仕えることとなる。」
とあります。

出典元はどこなんでしょうかね。
「仙台先哲偉人録」1938年出版に事の顛末が載っていました。

米沢城下町が大火に見まわれ、輝宗も自ら災難に会った民を助けている。
小十郎「なのに、自分は悠々過ごしていいのか?そんなものは武人ではない!」
喜多「よく言った!行ってこい!」
喜多の励ましもあり、小十郎は一人米沢へ駆けつけ、しかしものすごい火事で辺りは阿鼻叫喚、
この惨状に小十郎は猛火の中、屋上へ駆け上り(どこの屋上だ??)消火に努め、
これを見た輝宗はその勇姿に目を見張った。
やがて老臣遠山山城守が小十郎を輝宗に推挙したのである。

片倉小十郎米沢城を救う1

片倉小十郎米沢城を救う12

片倉小十郎米沢城を救う13
そして火消しに躍起になった小十郎、大活躍の小十郎、
GO!GO!小十郎!

やがて梵天丸の傅役となるのでした、まる。





あれ?小十郎を輝宗様に推薦したのは遠藤基信じゃなかったっけ?
ここでもまた、諸説あるということですね。
ならば部長版ストーリーもあったっていいんだよね!
片倉
前回の続き

登別市郷土資料館

ここに片倉小十郎景綱が、政宗より送られた甲胄があると知り、
これは見に行かねばなるまいと、伊達市にはもっと見所もあったにもかかわらず、電車に乗ってローカル途中下車を決めました!

なんでも。


政宗から、「おまえは年がたつにつれ肥満し、重い甲冑を着るのは苦しいでしょう、それで私の着ている軽い甲胄を差し上げます。いつまでも長生きして色々と指図して下さい」
慶長8年の片倉代々記に、年月不詳としてこの記述があります。

或時(年月日不知)公景綱を召させられ其身追年肥満し重鎧は苦労たるへし、依之軽鎧を下さる、尚身命を全して進退の下知可仕の旨、御意にて御召料の御鎧を御手つから賜ふ


うぬ!
慶長5年の関ヶ原の後、40後半で太り始めたというのでしょうか。

慶長8年から2年の間、景綱は病で白石に移れず、亘理や刈田郡に逗留したままです。
亘理はこの時、成実の領地となってます。
しばらくはご近所暮らしだったようで、亘理の引き継ぎも成実にとってはありがたかったかもしれないです。



それました。
その軽い甲胄があるというのです。





伊達紋別からローカル列車に揺られて、東室蘭で乗り換えです。

東室蘭駅


またしても小1時間、ヒマです。
時間があるので外に出ていいですかと尋ねたらどうぞどうぞと、改札を出て、駅前散歩。

喉が渇いたので100円自販機でコインを入れようとしたら
120円とか書いてあります。

ん????
RIMG6610.jpg


ああ、そうでしたか・・・。
「から」


小1時間待って、二駅です。10分で到着しました、幌別です。
時刻は4時。

目的地の登別市郷土資料館の閉館は5時。
距離はおよそ3キロ。

バス!と思いましたが、もう素直にタクシーです。



到着しました、片倉家!

登別市郷土資料館2
登別市郷土資料館1

ではなく、資料館。

3階まである資料館で、片倉家の資料が2階にまとまってあるのです。
190円を払ってスタスタと2階へ上がり
片倉小十郎景綱の甲胄をいざ!




・・・・・・・・・・。




ありません!!!!




どこにもありません!!!




ないような気はしていました。
そもそも、ニュースソースは2年前のこちらのブログです。
発見したのは北海道出発の前日の夜中です。


確認しようもなく、また当日確認しようかとも思いましたが
なくても行ったほうが面白いに決まっているので、あえて聞かずに行く事にしました。



そしてありませんでした。
写真すらありませんでした。

あったのは、
片倉重長の甲胄と、片倉家家臣の甲胄です。


重長の甲胄
登別市郷土資料館10

・・・・。

なんか違います。

最上胴で、篠臑当です。兜は星兜、前立てはあとづけピカピカ、
伊達の重臣が、仙台藩では仙台胴を使おうと決めた頃にこんな甲胄着ますかね・・・。

いや、部長の見立てはおかしいので、そうなのかもしれないです。
が、きっと違うと思います。

その隣に展示している片倉家の家臣の甲冑は、本物です。
登別市郷土資料館9

時代は政宗より下がるようですが、仙台胴で、成実と同じタイプです。
そして、でかい!!

身長170cm以上は軽くありそうですし、胴回りもでかい!
持ち主は結構な巨漢だったのではないでしょうか。

これが政宗から送られた甲冑なんじゃあないかと思ってしまいます。



ん?

そういえば。

最初の政宗の文章、変じゃないですか?

「太って大変だから自分の軽い甲冑をあげる」

ってことは、政宗もぶくぶく太っていてサイズが同じだったんですか?



・・・・・・・・・・。



確かに。
松島で見た政宗蝋人形館の政宗はブクブク太ってました。

政宗48歳
政宗48歳

政宗49歳
政宗49歳


そして前回紹介した成実の太めの甲冑。


・・・・・・・・。



デブトリオ・・・・!!???








北の大地で残酷な史実の一面を垣間見た部長でした。


ところで何故甲冑がないのか尋ねたところ、
当初は修復のため、いったん戻したけれど、
どうやら戻ってくる気配がなくうやむやになっているので、写真の展示もやめた、のだそうです。

片倉家は11代邦憲が、白石領を取り上げられ、北海道のここ、幌別郡を与えられましたが
邦憲は年寄りだったので、息子と孫が現地で開拓し、さらには札幌の白石村も開拓、しかし二人は宮城の白石に戻ってきたため(現・片倉家当主は仙台の青葉神社宮司でいらっしゃいます)
幌別、白石村に殿の姿はなく家臣の子孫しかいません。


そして、甲冑はどこへ行ったんでしょうか・・・。
仙台の本家にあるんでしょうか。
そこを聞くのを忘れていた部長です。


みなさま、ぜひ、今どこにあるのかを行って尋ねてみて下さい・・・。


ここは写真はOKです!
資料館には小十郎のサインもあります!

片倉景綱筆跡


登別市郷土資料館8
片倉の首帳

登別市郷土資料館6
仙台藩藩札

登別市郷土資料館3
片倉家のペット(・・・違います)

登別市郷土資料館4
片倉小十郎景綱の愛馬
(・・・・・・・)



やはりどこへでも行くほうが正解です。
気が済みました。
気分は晴れ晴れ、博物館は閉まり、バスの時間は1時間後。
何故か1時間後は5分おいて、もう1本走ってます。

なんだこのアンバランスな間隔は!!
タクシー呼ぼうか迷ったけれど、駅についても2時間電車が来ないので同じ事です。

白樺や北海道に咲いているおなじみの花など景色を堪能しておりました。

RIMG6687.jpg
一瞬、顔に見えた木

RIMG6694.jpg
北海道ではよく見る雑草。名前を知らず。




成実をおかっける北の大地の旅はもうちょっと続きます!
では!



片倉
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