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謎の多い松川合戦

2012/07/30 Mon 21:04

行って来ました、相馬野馬追!

だがしかし、しげ部的に大事なのは伊達の足跡です。
行って来ました、野馬追の翌日、福島は松川合戦の跡地へ・・・。


松川合戦とは、ざっくり言うと関ヶ原のゴタゴタに乗じて政宗が旧領を上杉から奪回すべく仕掛けた戦です。

が、いろいろ説が多くて追いきれません。

政宗がボロ負けした戦であり
有名なエピソードとしては、敗走する途中で政宗の竹に雀の陣幕が上杉に奪われ、
後日上杉家のお茶会に招待された政宗が見たものは、その時奪われた陣幕がなびいていた光景だったとか。

そもそも陣幕の話自体、疑わしく、
奪われたとしても竹に雀の意匠ではなく(この時点では竹に雀は使われていなかったと思われ)、
しかし、政宗軍が厳しい戦いにあったのはそうだった、らしいです。


行って来ました。


まずは、松川合戦において政宗が本陣をおいたと言われる
信夫山の麓、現在の黒沼神社で、上杉の篭る福島城のすぐ側です。

黒沼神社政宗本陣4

まずはしげちゃんの遊具がお出迎えです。
手前の芋虫なんだかモスラなんだか、が、可愛らしいです。



ここから登って行く(またか)と黒沼神社です。
黒沼神社政宗本陣1


特に政宗がどうしただとか言う案内板はありません。
代わりに立っていたのがすぐ隣りの護国神社のこの看板です。

黒沼神社政宗本陣2


だ、そうです。
先日描いた絵が頭をよぎります。

伊達バンド2


とにもかくにもここに本陣を構えた政宗、
福島城を包囲するため、最前線は、現在の福島駅前の陣場町まで迫ります。

陣場町1

陣場町2

テナントが空いてます。
迫る伊達軍におののき、退室した様子です。

ところでこの陣場町、いつの戦の陣場として名前が残ったのでしょうか・・・。



しかし福島城、まるで落ちない。
福島城はかつて、大仏城として築かれ、後に伊達時代には杉目城と呼ばれ政宗のジイさん、伊達晴宗の隠居城でした。合戦の拠点としては全く機能していなかった福島(杉目)城ですが、上杉が改造したのでしょうか。

政宗が大好きだったおばあちゃんもここに住んでいました。

福島城1
今は福島県庁があります。

福島城2
福島城内にもやすらぎのベンチはそこかしこに配備。
植物が優しく背後を覆ってくれます。

攻めても落ちない福島城、いったん体制を戻すべき、との小十郎の意見を聞いた政宗は国見まで引き上げます。

その時に松川あたりで上杉にやられて陣幕の話が出てきます。
松川は信夫山の北側を流れています。
けど、その当時は信夫山の南側を流れていたという話が伝わっていますが、信ぴょう性は??です。

ちなみにこれが松川。
松川

陣幕がここで・・・!!???

そして瀬上まで北上した政宗は、作戦を練り直すため陣を敷いたと言われる場所が、現在泉性院というお寺さんにになっています。


「政宗駒つなぎの銀杏」と呼ばれる銀杏の木があります。
泉性院2クリックで拡大

泉性院1


まあ、そんなこんなで、
結局上杉は徳川に逆らったため、30万石に減封
政宗は勝手に動いたり、またしても一揆を先導したことを問われて100万石は夢と消え、
政宗の悔しさだけが残った戦い、なのかしら。



ところで、真夏の福島、半端ないです。煮えます。


電車バスで移動する、ほぼ徒歩での旅行は夏場は死にます。
泉性院へは阿武隈急行、福島学園前から徒歩15分。
帰りは徒歩20分くらいのJR東福島から帰ろうと煮えたぎるJR線に辺りの道をとぼとぼ歩いていたら
駅の手前50mで電車に追い越され、無常にも電車は去って行きました・・・。


次は1時間10分後。


またとぼとぼと、炎天下の道を阿武隈急行線まで20ぷん歩いて戻って行きました。

このエリア、瀬上と宮代は、上杉と伊達のやりあった場所です。
小十郎とかがやりあった場所です。
RIMG6408.jpg


そう思えば、歩けます。
ここいら一帯でわーわーやっていたのか、暑いな。
RIMG6404.jpg


甲冑着て馬に乗って。
暑いな。

・・・・・・・。

もっと電車の便のいいところで合戦したらどうなんだい???

と、思った徒歩(かち)組部長でした。



野馬追はまた後ほど~~~~!!!
ぶひひーん!
野馬追2012年
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旅行記
夏休みに甲冑を製作予定のお客様へ

甲冑の素材は自宅にはあまり在庫しておりません。

ご注文いただいてから、メーカーに発注しております。
メーカーも夏休みに入るため、8月4日2日(すいません訂正します)までにご注文いただけましたら、
お盆前にお届けがギリギリ可能な感じです。
ご予定のある方はお早めに!


甲冑作り

甲冑

政宗の弟

2012/07/25 Wed 20:16

政宗には弟がいます。

母は政宗と同じ義姫、幼名を竺丸、元服して、
小次郎とか政道、と呼ばれた弟です。

正式な名前も生年月日も元服した年齢もぼんやりとしているこの弟。
亡くなり方もぼんやりしています。


有名な話では、
母に毒殺されかかった政宗が、母を切るには忍びない、
代わりに弟を殺して母の罪を問うた、というものです。


しかし最初この話を聞いたとき、なぜ母を切る代わりに弟なのかさっぱりわかりませんでした。

母が政宗を嫌って、溺愛していた弟(これも俗説)を切ることで、政宗の気がおさまるのか、
ちゃちい話だ。

そんな印象でした。


その後いろんな話を拾っていくうちに
母との関係は良好で、毒殺は母子の自作自演、弟は生きていて大悲願寺というところで住職として生きていた、という説が目に入ってきます。


部長的には収まりがいいような気がします。
毒殺の件は、事実にしろ、自作自演にしろ、謎です。ただの講談とも思えないですし・・・。

さておき。



では仮に小次郎が生きていて、住職さんになっていたとしましょう。
お寺での名前は秀雄と書いて、しゅうゆう、とよみます。

秀雄の経緯もこれなたぼんやりしていて、何故彼は政宗の弟と言われているのか、
これもご存じの方が多いエピソードからくるものです。

政宗が鷹狩に出かけた帰りに立ち寄った武蔵野の大悲願寺というお寺で
政宗と親しく話す住職さんがいる。
住職の名は秀雄という。
後に、政宗から秀雄に届いた手紙には、
「寺に咲いていた萩が見事だったので、一株分けて欲しい」
と書いてある。

それだけです。
白萩所望文書と呼ばれている手紙です。


弟とかそんなことはヒトコトもありません。ぼんやりしてます。


けど、秀雄は小次郎説が根強く、まあ、そんな話もいいんじゃあないかと思っています。

秀雄はその後、東京は中野の宝仙寺の住職となり、ここで亡くなり、
お墓があるといいます。


行って来ました。

宝仙寺


おっきなお寺さんです。
お墓も見つかりました。
(写真は遠慮しました)

どなたかに話が聞けないものかと、受付で訪ねてみましたが
今は職員がいなくて、政宗の弟の墓があるとか、たまに聞かれるけれどそういったことはわからないとの事でした。(すみませんでした)

もし訪ねてみたい方は代々の宝仙寺のご住職のお墓が並んだ場所(お寺の正面入口に案内があります)の左側に
秀雄と刻まれたお墓があります。ひっそりとお参りが望ましいと思われます。




白萩所望文書 



伊達家の歴史

へうげもの15巻

2012/07/24 Tue 22:10

皆様こんばんは~。

読みましたでしょうか、柿色のへうげもの15巻。
へうげもの15巻

関が原編です。

家康が凄いです。
興奮のあまり鼻血垂らしてます。
色々漏らしてます。


小早川秀秋の豹変ぶりも凄いです。
戦場における武将たちの興奮っぷりがみんな凄いです。

実際、戦場においては興奮してないと無理っぽいです。

戦が終わって石田三成は首をはねられるのですが、処刑の直前に所望した白湯の代わりに干し柿を与えられて「干し柿は体に悪い」と、断ったエピソードが実にうまいこと描かれていて、石田に惚れる仕組みになってるのですよ。これが。


信長の死にっぷりも
秀吉の死にっぷりも
もうね、
惚れます。


黒田親子の逸話もいい感じにアレンジしてねりこんであります。

以下、逸話です。
関が原で活躍した黒田長政は家康から手を握りしめられて「ようやった!!」と、褒められ、
そのことを父、黒田官兵衛に嬉しそうに話したところ
「それはどっちの手だ」と問われ、
「右です」と答えると
「その時左手は何をしていた(家康を殺す好機を逃したのか)」と、叱られたのです。



天下を取る。
本物のカリスマしか成し得ない、ガチな時代。



へうげもの、たまらんです。



で、我らが政宗は関が原にはいなかったわけで、
北目城で合戦終了のお知らせを受けるわけですが
ご存知の通り、政宗、家康から「100万石やるからじっとしてれ」と言われたにもかかわらず、ノンストップで旧領の福島を分捕りにかかるわけです。

そして、またまた政宗、夢破れ、しかしだからといって
ものすごい減俸されるでもない、不思議なポジションをキープします。


戦国自由人伊達政宗


何処かツメが甘いのか、故に許されるタイプなのか。
全くもって政宗は興味がつきません。


***************


追伸
なぜだかお返事かコメントが送れないです。
迷惑コメントとして弾かれましたって、なんでジャイ!!

そういった現象でコメント送れなかった方がいらっしゃいましたらごめんなさい~~~

腹が立つのでこっちに書き込みます。


慶さま
あーーー!
そうそう、氏郷のくだりも良かったです!抹茶で死ね!って喧嘩のシーンも好きでしたが。

政宗が主人公ではないんで成実の話はカットです。寂しいです。
忠輝は出ますかね。ワクワク。お母ちゃんは出ていたのでありえますよね!!
歴史

着用甲冑製作キット

2012/07/18 Wed 20:13

前から、甲冑制作のHPをつくろうと呟いてました。

作り始めたのですが、
メイン画像がこれです!



着用甲冑製作キット



どどーーーーん!!!!!!!!!!!!!!




どやあぁぁ


あとはしげ部らしく、壁新聞でも貼り付けておけばOKです!

動くフラッシュ画像とか、クリックしたらくるくる動くプラグインとか、そういうのはありません。ええ、ありませんとも!!

大事なのは、甲冑を作ると楽しい!
簡単に甲冑が作れる!
甲冑の作り方も部長のイラスト図説で、わかりやすく!

ということです。


写真背景の金ピカは、以前友人より
「甲冑制作に」といって、頂いた帯です。
勿体無くてまだ使ってないのですが、いずれ陣羽織の一部に変身すると思われます。


しげ部は皆様の愛情で成り立っています。
今後もお付き合いのほど、よろしくお願い致します!!!

2012年7月暑い日
しげ部・部長

余談
真夏に生まれましたが、夏は嫌いです。
だって北海道で生まれたんですもの!
(けど、冬も最近は辛くなって来ましたねぇ・・・。
春は花粉がひどいし、秋はなんだか短くなる一方だし。めそめそ)
甲冑

あの兵糧丸

2012/07/15 Sun 22:03

「武士のメシ」を読んで
部長は早速玄米を炊きました。
そしておかずは豆腐です。

なるほど、鉄分、ミネラル、タンパク質と
なんだか体に良さ気なものがいっぱい摂れた気がします。




この本には上杉の兵糧丸の作り方が載っていますが、
部長が作りたいのは、当然
大河ドラマで作っていた伊達の兵糧丸です。


材料は

きなこ
もち米
そば粉

を、陣笠の中で同量まぜて
そこに

すりゴマ
かつお節
はちみつ

を、テキトーに入れて
にごり酒とお湯でよくこねる。


こねたら直径4センチくらいの団子にして30分蒸す。
半日干して完成。


一方上記の本で紹介されている上杉の兵糧丸は

白玉粉
そば粉
きなこ
小麦粉
すりゴマ
砂糖、酒

です。

こちらは現代でも作れるよう、色々メニューの材料が変わっているようなので、
当時のものとは若干違いはありそうです。
(そりゃあ、鶴のみそ汁なんて作れないですからね)


ふーむ、材料はともかく、問題は陣笠です。
何処で手に入れるべきか??





歴史
本日の図書館本は
「武士のメシ」宝島社
です。

各戦国大名のご飯を紹介している本です。


もちろんお目当ては政宗のメシです。



有名なエピソードがあります。
政宗の息子の元服祝に、茂庭綱元が振舞った膳がしょぼい。
大豆メシとイモノコ汁と生鰯だった。
政宗が成実に「しょぼかった」と話すと成実は茂庭に対して
「失礼じゃん!」と怒る。

茂庭は、政宗に対して
「かつて人取橋合戦の折、天下泰平の暁には
大豆メシとイモノコ汁と生鰯をたらふく食べたいと申したではないですか」

政宗は「ごめーん」と謝ったとさ。ちゃんちゃん。


そのご飯が載っていました。
RIMG6117.jpg


他にもおせちや本膳が。
政宗に限らず、他の大名ご飯も全体に茶色いです。





最近色々調べて思うことがあります。
政宗の子供時代は結構貧乏だったんではなかろうかと。


米沢城は、攻め込まれるとあっという間に突破できる、しょぼい建物だったというし
輝宗様は身分にかかわらず、有能な人材を起用したのは
安い録でも大丈夫だからではないのかと思ってしまいます。

小十郎も、城に上がって殿の息子の傅役になったはいいが、
しばらくしても5人ぶちで、貧しく、嫁ももらえないから伊達家の勤めをやめようと決意する逸話があります。


政宗の子供時代の着物が残されていて、
墨汁の跡や、破れを繕った跡もあるそうです。ちくちく。


質実剛健な政宗の甲冑は人取橋で着用していたとの話で、
実は飾り立てる予算がなかったから、の、美しさだった仮定すると、新鮮です。


そしてその時たらふく食べたかったのが
大豆ご飯。





貧しいといっても、それでも東北においては大変なお金持だったと思うので、秀吉と、中央政権の大名に会った時には、己の貧しさにびっくらこいたんではないかと。

ゆえにのし上がる政宗。


そんなストーリーはいかがでしょうか。

貧乏政宗


※大豆メシのくだりは、落ち着いてゆっくりメシが食いたいという意味であると想像しますが、いかがでしょう。
 あるいは、輝宗様の好物だったのかもしれないです。

あ。

涙。
政宗の歴史
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