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へうげもの~政宗編~

2014/06/29 Sun 23:02

へうげものという、古田織部を主人公にした漫画があります。

焼き物なんかの話です。くわしくは読んで下さい。



さてさて。
政宗が古田織部に会ったのは、天正18年6月小田原参陣の時。

その次の年の4月に京都の妙覚寺で政宗は茶会を開きます。
全国大名との数寄デビューです。

その時に使用されたと思われる茶器に関する話です。


何がどうして、茶会の話になったのかはまだ不勉強ゆえ後の課題としておいといて。

ともあれ、政宗の名誉にかけて、奥州産創作茶器で茶会を開く。
つついたのは古田織部だという話です。


戸長里窯2

織部は政宗のために米沢へ一流の陶工を送り込みます。

織部の器を作るには白土が必要だったので、探したところ、
政宗のホームグランド、館山城の東に10キロ、戸長里にありました。

天正18年の7月に、古田チームの陶工たちは戸長里到着し、9月に初窯、10月に本番、そして翌年4月にはその器をもって茶会が開かれたというのです。

そんな短期でできるのか!

戸長里窯1

白土は鉱山から取れるらしく、鉱山知識に長けていたと思われる伊達家にとっては、土探しは難しくはなかったのでしょう。
ついでに金山も見つけてしまったような気もします。

時期は外れますが、天正18年2月に小野川あたりの金鉱採掘を始めています。
同年春には南陽市でも産金が始まったといいます。
そのせいで、小田原へいくのが遅くなったという話も拾いました。



えーと、それました。
この時は秀吉の仕置は会津を没収されただけだったので、米沢はまだ政宗のものでした。
短期で作られたにもかかわらず、窯はそれはそれはいい出来だったようです。

しかし、政宗、米沢も没収され、岩出山へ飛ばされます。



戸長里窯も閉鎖されます。わずか半年の命でした。


幻の織部焼の窯となったのでした。


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政宗の歴史

船橋御前?

2014/06/29 Sun 16:33

気になる名前を見つけました。

「口碑によれば、
高畠町船橋というところに小豆舘があり、政宗の伯母、船橋御前と呼ばれる女性とその息子
船橋頼母重宗が住んでいて、天正19年、政宗にしたがって岩出山へ移ったという。」
~山形県中世城舘跡より~

どなた??

亘理重宗ではなさそうですし。

輝宗の姉は阿南姫しかいません。
晴宗の兄弟やその妻の関係とか?

以前高畠町を訪れた時に聞いた地元の方の話しによれば、
小十郎が生まれたのも政宗が生まれたのも高畠町だと言っています。

口伝というのは、何かの理由があって伝わっていることなので
無視することも出来ません。


個人的には船橋御前は輝宗様の側室ならいいなあ、と、思ってみるのです。




もいっちょ、気になる記述を。
こちらも高畠町史の記録によると、
夏刈舘、政宗がちっちゃい頃資福寺で虎哉和尚と学んでいた時に逗留していた屋敷の所有者は
片倉小十郎になってました。

他の記録では、伊達氏の所有となってます。


高畠町、面白いです!
政宗の歴史

伊達家と金山

2014/06/27 Fri 18:47

伊達家のいるところ、金山あり、と、以前にも書きました。

なんのことはない、実元・ 成実がいた大森城もそのものが金山じゃあないですか。
http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/oomori/oomori.html

信夫山も金が採れた。

とにかく、鉱山は伊達家の生命線だったことは間違いなさそうです。



1つ前の記事で上杉だった土地を徳川の普請によって町を作り替えた話をしましたが、
もし、米沢を秀吉や家康の命で誰かの城を政宗が普請せざるを得ないとしたら?

政宗は城は建てる一方で、人足をかつての金鉱へ忍び込ませてこっそり金を採掘しているんじゃないかと考えてみました。
源頼朝は黄金郷・奥州平泉の藤原氏を滅ぼして、伊達家含む家臣を奥州へ送り込んだ後、金を独り占めしようという計画はなかったんでしょうか。義経は奥州の金を利用して、独自に黄金国家を立ち上げる準備はなかったんでしょうか。

戦争の原因は今も昔もおかねがらみですよね。ふう・・・。
伊達家の歴史

高田城にまつわる政宗の話

2014/06/27 Fri 15:51

今年は高田城400年に当たり、上越市では色々と記念行事も行われるようです。

初代高田城主は家康の6男・松平忠輝。
伊達政宗の長女、五郎八姫のお婿さんです。

高田城を築く前は、高田上から4キロ北にあった海寄りの福嶋城(築6年)に二人はいました。

なんで、わざわざ新築のお城を捨てて、全く新しいお城へ引っ越したのかは諸説あります。
忠輝が「波の音がうるさい」と訴えたわがまま説と
福嶋城は水害が多かったから。


近所には謙信の春日山城もありますが家康が「やまじろはだめだよ~ん」といって1607年、廃城となっています。

1614年は大阪の陣の年。
豊臣に対する徳川の押さえとして、越後に強力な城を作らせたということです。
上杉家への嫌がらせのような気もします。
上杉の聖地・春日山城のある上越を徹底的に作り変えたとも言えます。
江戸になるまでは謙信のお膝元・直江津が栄えていたが、道を迂回させて直江津を通らせないようにしてしまったとか。
今でも鉄道会社が敵の施設があるところを迂回するのと一緒ですね。

ともあれ、春日山城も福嶋城も廃され、新たな城下町が作られることになりました。


建築には13の諸大名が担当します。

加賀前田さん
越後村上さん
米沢上杉さん、
越後溝口さん、
陸奥蒲生さん、
信濃仙石さん
出羽最上さん、
出羽佐竹さん、
陸奥南部さん、
信濃真田さん、
信濃小笠原さん、
甲斐鳥居さん、

そして工事の総監督こそわれらが陸奥、政宗です。

政宗の高田城普請


ともあれ、中がいいのか悪いのかよくわからない諸大名や名代が、上越市に集まって街を丸ごと徳川専用に塗り変えるための工事が4ヶ月という超短期で行われていたわけです。

【超高速!城下町普請】
という映画ができそうです。

ところで、普請の最中に、地面を掘ったらお湯が出てきてドロの中に生きたサメがいた、不思議なことよの~って
政宗本に書いてあった記憶が。
鮫の歯が出てきたので別名鮫ヶ城といわれる、ということですが。



話がそれました。
工事期間中は当然、、皆、どこかに泊まっていたわけです。

政宗の御仮宿は、福嶋城と高田城のどまんなかで、
今の住所で言えば富岡にあったそうです。
左の伊達の足あとマップにピンを打っときました。
今は史跡を示す棒もないただの場所です。八角亭というラーメン屋さんがあります。

ちなみに福嶋城は、現在の上越市立古城小学校だと言われています。名前、そのまんまですね。


イベントで賑わう高田城を訪れる時は、政宗も通ったであろう、
古城小学校から富岡のラーメン屋を経て高田城へ向う。
これが、政宗好きの正しいルートと言えましょう。



ここから妄想。

上越といえば謙信以前の上杉家が支配していた場所。
謙信以前の上杉家といえば、伊達成実のパパが養子縁組したお家。

養子縁組はしたものの、上越支配は幻に終わった伊達家。
政宗の娘が、上越に入った。

72年ぶりに伊達家の血が上越に入った。

政宗、成実両者にとって、この出来事に含むものはなかったのか。
その直後に起こった大坂の陣の報奨として何を期待していたのか。

結果として、忠輝と五郎八姫は離婚させられ、
さんざ、お金をつぎ込んだ高田城だったが再び上越と伊達家は無関係になってしまうという、歴史です。

高田城普請が終わると政宗は置賜・二井宿峠を経由し仙台へ戻ります。
置賜の常念寺で1泊した時に詠んだ歌。

故郷は夢に見るさへ恋しきにうつつになどかめぐり来ぬらん
こし方の おもひ旅寝の ふる里に つゆおきまさる 草枕かな

さらに資福寺跡で詠んだ歌。

あるときは あるにませて うとけれど 亡き跡をとふ草枕かな


上杉の地の塗り替え工事をし終えて、今度は上杉によって塗り替えられたかつての土地を見た政宗。
いずれにせよ、戦って土地を明け渡したわけでもなく、秀吉、家康という天下人のしわざです。
成実が政宗を中心とした伊達家の青春時代を書き残そうと思ったのも、わかります。

二井宿峠を通って仙台へ戻ったということは、白石経由です。
病気の景綱にあれこれ語ったんじゃあないかと想像します。




ちなみに、それからずーっとたった、出来すぎ領主・上杉鷹山公が伊達家のお墓のことを知り、手厚く保護したそうです。
政宗の歴史
いや~、気がつけば6月も終わりじゃあないですかっっっ!

さてさて。
6月4日にネットTVにださせていただき、好き勝手成実の話をしてきました。

してきたつもりでした。



まあ、見てくださいな。


・・・。





見ましたか?
見ましたね。


気がつけば実元達の話でした。



いや!
成実を語る上では、パパ実元を知らないとイカンのです!
次こそは成実の話をだねぇ・・・むにゃむにゃむにゃ。



舞台裏はといえば、
まず、スタジをに向かうために駅へ行ったら財布を忘れてサザエさん。
取りに戻って待ち合わせに遅刻して、無駄話をして着替えてたらもう本番だ!
本場5,4,とカウントダウンが始まってました。

そういうわけで髪の毛がアホ毛のように立っています。

自分で見て、自分のセリフに笑いました。


アホですね。
色々間違ったことも喋ってると思うのですが、
これはしげ部部長の物語です。
講談です。


講談したいなあ。腹筋と声の出し方を鍛えないと無理そうだ。
どうしよう、人生後半に来てやりたいことが増えるばかりだ。
成実

源頼朝の墓

2014/06/17 Tue 22:41

鎌倉へ所用で行ってまいりました。

修学旅行生で混み混みです。


さてさて。
伊達家が好きならば全ての始まり、源頼朝を知っておく必要がありましょう。

伊達の祖は頼朝の家臣団で出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられる。
そんな初代・朝宗は頼朝と仲良しさんで、自分の娘(大進局)を頼朝の側室にしました。

娘さんは男子を産みますが、正妻政子の怒りを恐れてひっそりと暮らしたという話が残っており、
伊達家と源家のサラブレッドはここでおしまいになってしまいました。


初代・朝宗は頼朝の奥州合戦で功をあげたとして、今の福島県の伊達郡に領土を与えられ、以降「伊達」を名乗るようになりました。
ちゃんちゃん。



そんな、頼朝さんのお墓です。
鎌倉にあります。
源頼朝墓

ほとんど人はいません。
観光客はここまであまり来ないようです。

とはいえ、しっかりと道案内もでているし、マップにも載っています。
その、脇の険しい山道を少し行くと、鎌倉幕府に協力的であった毛利さんと島津さんと大江さんのお墓がひっそりとあります。
毛利家の墓

近辺には毛利家の家紋がいっぱいです。
が、ますます人はいません。

更にチョット外れたところに三浦氏のお墓もあります。
三浦氏の墓
ほぼ秘境です。


後で調べたら、三浦義村という人のお墓でした。

三浦義村のおじいさんが三浦義明で、悪源太義平♡のおじいさんです。
悪源太義平とは誰!とおっしゃるうさぎさん、部長がはるか昔、歴女になったきっかけともいうべきお方です。
伊達家を追っかけるず~~っと以前に好きになった人物です。
源頼朝のお兄さんです。
興味ある方はググって下さい。



そんなこんなな、源頼朝。いい国を作った源頼朝。

お墓はあれど、今ある場所は後から移動したものだそうです。
よくある話ですね。

では、遺骨はどこにあるのかと尋ねたら、現在のお墓のある場所から南へ約400メートル、
鳥居はありますが、とくに看板もなにもない小さな山でした。
源頼朝の墓

もちろん本当にここに遺骨があるかははっきりしませんが、
本来の頼朝のお墓はここの山にあったんだそうです。



その山の麓に所用でおじゃましておりました次第です。

鎌倉もまた、奥が深くて簡単に巡り終える場所ではなさそうです。




歴史

政宗の湯~箱根編~

2014/06/15 Sun 21:38

久しぶりに政宗の足あとです!

今回訪れたのは神奈川県は箱根。
そうです、政宗が秀吉から呼び出しを食らって小田原を目指したところ、
小田原の手前、箱根は底倉というところで、待機を命ぜられました。


一般的には、底倉で蟄居、となっています。
蟄居とは、ウィキペディアによれば
中世から近世(特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させるもの。
だそうです。

底倉はもちろん政宗の自宅ではないし、昔から建っている屋敷を滞在のために数日与えられたとすれば、超絶待遇いいし、おそらく戦争のための仮小屋じゃないかと思うんですが違うのかなあ。

蟄居ではなく、なんといっても温泉場だし、「よく来られた」という、歓迎の意であると説く人もいるので、逗留していた建物がどうだったかで、秀吉が怒っていたのか、歓迎していたのかわかるような気がします。


さてさて、そんな底倉です。
底倉政宗蟄居

ここに、怒っていたのか、歓迎していたのかわからない太閤が、入ったと言われている岩風呂があります。
太閤石風呂1
渓流沿いの遊歩道に、

太閤石風呂2
岩風呂を見られるポイントあり。


太閤石風呂4
今は入れません。近くまで行くことも叶いません。
ホントに不便そうなところです。

少なくとも今は道もないですが、昔はあったんでしょうね。
それにしても、小田原と箱根の底倉は結構離れてます。
わざわざ底倉まで登って来なくても、麓の箱根町にいくらでも温泉は湧いてると思うんですが、
なんで底倉。

それもまた、戦いにおける陣の取り方に寄るものかしら??

ちなみに、底倉温泉のお湯は「痔」に効くそうです。
秀吉は痔だったということでしょうか。
秀吉の温泉といえば有馬温泉が有名ですが、ここは日本でも数少ない含鉄泉で、
含鉄泉は痔に効果があるんだそうです。

宮城の鳴子温泉も含鉄泉です。
痔は政宗の方かしら。
武将はたいがい痔なのかしら。



現地へ行くと色々と疑問が温泉のごとく湧き出てきます。
そして解決しません。






太閤の湯を眺めるための、やすらぎのベンチ。
太閤石風呂3

さすが、秀吉。ビックネームゆえ、ベンチは3つも完備しています。
これなら、観光客がどっと押し寄せても、くつろげますね!






さてはて。


そんな太閤の湯に近い底倉温泉のつたやさんで、政宗も浸かったであろう同じ湯を浴びてきました。

底倉温泉政宗の湯2

暖簾をくぐれば、温泉。
底倉温泉政宗の湯1

貸し切りです!
今日も貸し切りでしたよ!

貸し切り温泉部長と呼んで下さい!


そして、前回撮りそこねた、小田原駅の北条早雲の銅像!

北条早雲銅像1
背景の緑に紛れてわけがわかりません!


北条早雲銅像2
アップ。


うむ!
底倉にも早々に政宗の銅像が建つといいと思うよ!
旅行記
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