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先日京都に行ってきました。

そこで、西本願寺にある「飛雲閣」を見てきたんですが、これがまた素晴らしいの一言で、
とはいえ撮影禁止で写真もありませんが、とにかく見た目が非常によろしいのです。

秀吉の幻の城、聚楽第から移築されたという話が普及してますが、


違いました。

江戸時代に建てたという記録が西本願寺から見つかっているにもかかわらず、聚楽第説を捨てないのは、それ程にこの建物が魅力的なせいだと、「建築と庭」という書籍に載っていました。

おやあ?
西本願寺のガイドにはそのようなことは・・・。
夢を見させているのだろうか。
しかし建物の魅力があせる理由にはなりません。


この「建築と庭」、建築事務所に遊びに行って発見して一目惚れして、借りてしまいました。心よく貸していただき、感謝感謝です!

京都メインの歴史的建造物の間取り図がズラズラと載っているのです。
なんという天国・・・。

飛雲閣の間取りもありました。ちらりとご紹介。
飛雲閣間取り

京都御所の図面もあります。
めちゃめちゃ広いです。
アマゾンで買えます。

は~。
この本片手にもっかい京都行きたい・・・。


そして教えてもらったもう1冊
「大厦成る―重源‐東大寺再建物語」
アマゾンで買えます 。

源平合戦のさなか、東大寺大仏殿を再建させるというお話。

巨大建築物を人の手で建てる風景が見えるかもしれないです。



余談ですが、遊びに行った建築事務所は横浜にある築80年のビルディングで、入るとほのかにパリの建物のにおいがしました。建材の匂いなんだろうか??

天井高が4m!
古民家の移築保存は数あれど、ビルの移築保存はまだ聞いたことがない。
解体が出来ないので仕方ないが、古いビルもまた、いつかは消えていくのかあ・・・
100年持たない現代建築。


フィレンツェでは築200年でも新築のたぐいに入るというのに・・・。
世界中の巨大建築もまた、人に手によるのだ。
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書籍

伊達メモ

2014/10/16 Thu 02:29

図書館で郷土出版社の福島県の歴史シリーズから拾い読みしてきました。


メモ
大森惣社八幡宮は天文21年、伊達成実が信夫郡51郷の惣社とした

ええ!??
実元・・・ですよねえ??


メモ
天正14年二本松城を落とした政宗は家臣の所替えをした。
何かと気遣いのある成実を大森からだし、こころやすい片倉景綱を大森に入れたことで、これ以降の政宗の出撃には大森城が拠点とされた。

う、うん。
成実が大森城を去ってからの政宗の大森城の使用頻度は格段に上がっています。

やっぱり成実は左遷されたのか!??
二本松での成実の仕事は、逃げ出した農夫達をかき集める所から始まり、
二本松城には成実が焼けた残骸を捨てたゴミ穴があるという。
一般的には二本松は恩賞というが、どうも違和感があるのです。


メモ
伊達実元の墓の本来の墓標は松の木であったと伝えられる。厚く苔むした切り株が実元がここに眠ると伝える。

うおお!木がお墓説、立証でいいんじゃないかな!


メモ
須賀川城を攻め戦いが終わった3日後、政宗は見せしめとして16歳で初陣した天仙丸(須田広秀)を磔にし、鉄砲で撃ち殺した。そののち、この場所は用水路となり、稚児ヶ池と呼ばれ更に筑後池と名前が変わって今に至る。

やはり戦争はいけません。



色々あるけど、まずはこんなところで!
図説だから文字情報が簡潔で読みやすい。
東京都立図書館にあったよ!
図書館っていいよねえ・・・。
伊達家の歴史

愛姫ブランド

2014/10/13 Mon 03:07

装束のことを調べていると、こんな記述がありました。
平安時代の貴族が着てる装束は妻の負担だった、っと。


ほほう。


これが時代が下り、江戸に入ってどうなったのかは、書いていなかったのですが。



愛姫は徳川建献上する着物も縫っていましたが、
政宗の着物も縫っていたと思います。

愛姫のセンスは独特だったと、何かの(覚えておこうよ、部長)本で読みました。

江戸時代の着物には文字が刺繍で入っているものが多く残っています。



ひょっとして、政宗の着物には「まさむね」と書いてあったんじゃあないかと思ったり。
それで、皆から「政宗」と、名前で呼ばれていたんじゃあないかと思ったり。

愛姫と政宗



五郎八姫の名前も意外と愛姫の命名かもしれないですね。
「女など産んではおらぬ」と、言い切るくらいには気丈な嫁だったと勝手に想像しています。
オスカルのように育てなかったのは、フィクション好きには残念至極。
しかしこの場合はお江を守るってことになるのかしら??
「江戸のバラ」

革命は起きず、徳川アンタイの世が続いちゃいますが。

そして買っちゃいました、
40年ぶりの最新刊。
ベルサイユのばら11巻
思ったよりも当時の絵柄に合わせていたのが幸いでした。

以上、どうでもいい記事でした。
政宗の歴史

肖像画の謎

2014/10/12 Sun 18:20

武将の肖像画には、色々不思議なことがありますが、
スッキリしたことがあったのです。


まずは烏帽子の謎。

Azai_Nagamasa3.jpg
浅井長政 wikipediaより

Ukita_yoshiie.jpg
宇喜多 能家 wikipediaより




なんだかやけに後ろの方に、ちょこんと乗っかってるだけの烏帽子姿の絵を見ます。


アレはどういうことなのか、
いくら髷があるとはいえ、落ちるだろう。
しかもあご紐もありません。
絵の描き方が独特なだけなんだろうと、勝手に思い込んでいましたが、

違いました。

こういうことでした。
装束の謎
ついでに、束帯姿の肖像画の裾がぴーんと立っているのも、
肖像画の様式美かとおもいきや、
実際、できたてホヤホヤの束帯の裾はノリで丸めてあるため、固いのだそうです。

351px-Date_Masamune02_20141012171842bde.jpg
ご存知伊達政宗 wikipediaより

後に引きずるベロベロはさすがに絵としての表現だとは思うけれど、実際何か入れて波打っていたのかもしれない・・・!??



さらに、これ。

Honda_Tadakatu.jpg
本多忠勝の肖像画です。wikipediaより

この絵に描かれている兜と、今現在残っている兜は若干の違いがあり、
絵のほうが、適当に描いちゃっているんだろう、
ということで、現存する甲冑を本物としていたのですが、
そうではなく、肖像画が正しくて、今あるものは江戸初期に作られた当時の写しだという。

背中から出ているフサフサはなんだろう。
兜に毛が生えていたんだろうか。
甲冑に毛が生えていたんだろうか。
それとも忠勝本人の毛だろうか。外人のようです。

本多忠勝

と思ったけど、やはり、兜に生えていた「唐のかしら」のようです。
「唐のかしら」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す。wikipediaより 

一般的なイメージだと武田信玄の兜に白いフサフサが付いているアレです。
アレも信玄のものではないですが、すっかり定着しちゃいましたね。。。


今見られる忠勝の甲冑には毛は生えていませんが、
正しく複製するならば、毛も付けておくべきでしょう。ふさふさと。

「唐のかしら」



そしてこれは漫画「へうげもの」ですが、
へうげもの大久保長安


てっきりテキトーに描いたのかとおもいきやきや・・・!



大久保長安1
ありました。

資料集めの膨大なことこの上ない・・・!





江戸時代に入って描かれた多くの武将たちの肖像画は歌舞伎や浮世絵風に空想的な表現も多いですが、
当時に描かれたものというのは、とても正確だということです。

甲冑
先日のだて部での話しです。

成実は秀吉からどう思われていたのか。
これはずっと気になっていたことであります。


秀吉による奥州仕置のさいに、
石川昭光は政宗支配下にあったのに、大名とみなして所領を召し上げられている。
では成実は?

二本松城主ではあるが、秀吉目線からは「アレは大名にあらず」
政宗の配下の一人ということで、政宗の領地として二本松も召し上げられます。


とくに成実が独立大名であったという記録や描き方はどこにもないんですが、
小十郎うあ綱元と同じラインの立ち位置ではない。
が、大名でもない。
という、非常に位置づけしづらい人物です。


政宗からしてみれば、手紙から見て取れるように、
小十郎に対しては仮名書で、名前も「片小」略するなど身内のような扱いであるのに対し、
成実には漢文で、必ず「五郎殿」というふうに「殿」を付けて、礼を尽くしている。
単なる家臣でないことはこの時点では明確だが、

だが。


留守政景や国分盛重のように明確な領主ではない。


だが。


代々伊達家の兄弟は伊達の苗字を与えず、遠くへと切り離したのだが、
すったもんだの実元だけは、なぜか伊達性のまま伊達家に仕えることになってしまうという、ややこしさよ。
これも単純に家臣ではなく、自由な軍事行動が取れることから、独立した地方領主の体でもあって。

その息子も伊達性のまま、大森城に居るんです。



そして今までの定説を、ひっくり返される事がありました。
それは、秀吉が小十郎に三春3万石を与えて、政宗から小十郎を引き剥がして伊達家の弱体化を測った、という話がなんとなく流れています。

そもそもこれは大きな間違いだというのです。

伊達家の弱体化を測るのではなく、
能力のある小十郎にきちんとした地位を与えて、屋敷を与えて、体裁を整えさせて後、軍役を取る構えだったというのです。


なんと!



そして、成実には声がかかっていない。


しげちゃんは、秀吉にしてみればいらんかったんかい!!!!




そして出奔。



この出奔他家に比べたらヌルヌルで、「成実、部活やめたってよ」程度の事件かも、という。
映画「霧島、部活やめるってよ」は名作です。
神木隆之介がかわいくてねえ・・・。







成実は綱元のように伊達家の政治には関わっていないようだし、
かといって政宗からしてみれば重要な人物であることに生涯変わりはないようだし。

とにかく、今言われている歴史の事件の理由を全て排除して、
起こったことと、当時の政治状況を照らしあわせて考えてみるとなにか見えるのか、
節穴部長が全て見過ごすのか、
そもそも政治状況が勉強できるのかが一番の課題。

立派な本を借りると眠たくなって、寝てしまう部長です。






成実
だて部の時間に収まらず、時間外に第一回目の疑問を質問しました。

まずはこちら。
「支倉常長が持ち帰ったローマ市公民権証書に、鉛筆でアンダーラインが引いてある箇所があり、
果たして政宗の仕業か、のちの学芸員の仕業か」

仙台市博物館の菅野さんにさらっとお尋ねしました。

「政宗とかが引いたものではないね」

学芸員が引いた証拠もありませんが、少なくとも時代が遡るものではありませんという話でした。


そういえば政宗の鉛筆書きの文書は残っていませんね。




甲冑の話も少し質問してみました


政宗の五枚胴は鉄であるが、なぜあえてあの形なのか。

「理由はわからない」「一種の復古調(関東の古い鉄の甲冑があります)かもしれない」
「政宗以前の甲冑が存在しないのも謎」

※菅野氏からの補足
「稙宗のものと伝わる桶川の五枚胴具足が紹介されている雑誌があるが、信ぴょう性は半々」

※部長の補足
輝宗の具足(愚息と変換された!まままさむね・・・)と伝わるものが青根の旅館にあるが、時代が違う都の意見も。
RIMG0001.jpg
「不忘閣」、ここは人生の中で一番いい温泉です。


甲冑を見せることにより、東北の鉄が良質である事をアピールする目的はなかったか?

「あるともないとも言い切れない」
「甲冑ではないが、日光東照宮に寄贈した鉄の灯籠がなぜ石ではなく鉄なのかを考えると、鉄の技術が高いことのアピールという話は少しは考えられるが・・・」


片倉小十郎景綱の甲冑はどこかに残っていないのか。

「ないです」





前回お題に上げた伊達家の経済の話は、部長が意識しながら色々見てはいるものの、
ズバリ「こうです」「これを見てください」
という結果にはいまだ至りません。
話が大きすぎるので菅野さんには質問しませんでしたが、関連する話として会の中で、
他家には多く残っている、大名以外の生活レベルの記録が伊達家には極端に少ないのだそうだ。
北条家は実に色々な文書が残っており、秀吉に攻められてこれから城を明け渡す瞬間まで、記録係が淡々と記録している、ということ。
北条家が好きになると、大名よりも名も無き人々が好きになってくると、参加者さんが熱く語ってました。

以前、伊達領内の材木に関わる文書が発見され、直接政宗や成実と係る内容ではないが、当時の彼らの動行を知る手がかりになると言われた事が今ようやく、そういうことの研究の積み重ねで初めて、背景が見えてくるのだと実感しました。

※補足あり。長いので別に記事書きます。


更に話を遡れば、稙宗の出した「塵芥集」。
ざっくり言えば法律のようなものですが、「塵芥集」が実際に使われたという記録が今のところ一切ないのだという、これまた驚きの発言!

夢日記?
稙宗が「こんな世界があったらいいなあ~」と言って描いた未来日記なのか!

といって、ひとしきり盛り上がっておりました。
生口制度


塵芥集が出来たのが天文5年といわれ、天文の乱が起こったのが11年。

記録がないだけで、使っていなかったわけではないと思いますが、さて。


といいつつも、タイムスクープハンターでやっていた塵芥集の「生口制度」は、伊達家は犯人探しはしないから、自分たちで犯人を探して来い、というお触れだった。
これなら記録に残りようもないのかしら??



※菅野氏からの補足
「ただ、塵芥集の中身そのものは、かなり伊達領の実態を反映している気配が濃厚・・・。
ということで、この塵芥集をどう考えるか、これは学界でも大きな疑問点になっているのです。」

この意見を単純に受け止めると、

困ったことがある、
なんとかせんといかん、
よし、決まり事をつくろう。

という流れなら、当時の困っていたことも書かれているという読み方も出来そう??
「戦国法の読み方」
早く図書館にはいらないかなあ・・・。


拙い質問にも丁寧にお答えくださった菅野さんに改めて感謝しております。

だて部
伊達家に関する勉強会「だて部」
いろんな人の話を聞いて、自分の意見も交わしながら一人では見えてこなかった歴史をみんなで学ぶ「だて部」です。

今回は仙台市博物館・資料編纂室室長 菅野正道さんを交えてのとても贅沢な勉強会となりました。


おおまかな話の内容としては、5月に仙台市で行われた「伊達政宗フォーラム」の、
「政宗を読み直す」を核に、広範囲にわたっていろんな質問や、そこから派生する話であっという間の3時間でした!

前回の話と重複しながら、参加者同士の質問も交えるので色んな所に飛び火しながら、
結果として今一般的に語られる政宗像ではない別の姿や、もっと大きな枠として伊達家・当時の様子を捉える下地がどんどん見えてきました。


内容の詳細はホームページを作成し、掲載する予定です。
片手間に作れることでもないので、なかなか完成できずにいますが・・・。


歴史を学ぶにあたって、古文書ばかりを追っていたのでは今の歴史観から脱却した新しい発見は難しく、もっと逸脱した変なことを考える力、映像や空間として捉える力、あとは「センス」が必要なのだと、の話も。
うぬぬ~~~!!!しみじみ。


部長からは、
政宗が初めて京都に上洛する際に黄金の磔台を持っていたのか否か。ということ。

黄金の磔


本当だとすれば、他家の文書に記述がてんこ盛りになるだろうが、そうではない。
利休が当日政宗を迎えに行っている。
その後、京都では政宗ブームが起こっている。なぜか。派手なパフォーマンスが実際あったから?

といった事から、
つくり話臭いが、もしかしたら本当かもしれないし、という質問に対しての菅野さんの意見は


磔台の件はあまりあてにならない文書の記述。
利休は政宗を迎えに行ったわけではなく、政宗見物に行った。
京都でいろんな人々が政宗に会いたいと思ったのは、奥州からのみごとな貢物(馬、鷹など)は皆が知るところであり、
京都にとっては馴染みが薄い土地(田舎者という下卑な気持ちはない)からの大大名が来るということで敬意を表して歓迎した。

たとえ話として出たのが「イギリスがインドの王様を招いたような」。
「政宗は象にはまたがっていないけどね」。


奥州の馬は当時も江戸時代も超一流ブランドであったという。
「忠家日記」の記事参照



京都の文化は伊達家ではかなり以前(少なくとも室町時代にはすでに)から取り入れていて、決して成り上がり大名ではない。
政宗が能や連歌、漢詩をこなしているのは伊達家の蓄積された風土による。
政宗の歌が突出して素晴らしいというわけではないが、全てをこなせる点に注目すべきで、
とくに漢詩を作れる大名は非常に少なく、その点で言えばマルチな才能を持っている優れた大名であった。


だて部の話のごく一部です。
濃いです。


途中、これまた部長からのお遊びで、
「政宗が台所に立って料理をしている絵を描きなさい」というお題を出して皆に描いてもらいました。


部長はあらかじめ答えを探して、川崎の民家園で台所を見物したり、瑞巌寺の庫裏(仙台城の二の丸と同じ構造だという台所)を思い出そうとしたがまるで思い出せず、映画「武士の献立」を見たりしていたのですが、出題者が見事に間違いました。


間違いを探せ!
奥州にかまどはない
あ、「描く」なのに・・・。



その大きな間違いは、
「奥州の台所にはかまどはなく、囲炉裏で料理を作っていた」ことです。
なんということでしょう!!!
大きな屋敷にかまどはあったにせよ、メインは囲炉裏だということです。

歴史を理解している方の絵は、もうね、ディティールが正確です!
囲炉裏です。

その辺りは次回に・・・。


第3回もやります!
時期、場所に関してはこれからの調整ですが、こうしてブログで書いていることの10倍、100倍面白いその場のノリです。是非参加して「だて部」を体感してみてくださいませ。
歴史を学ぶことは一人では難しいと、改めて「体感」しました。

歴史を学べる講演会は数あれど、直に質問し合いながら会話も楽しみつつ勉強できるのがだて部です。



今回参加者の皆様にはお足を運んでいただき、貴重なお話など聞かせていただき本当にありがとうございます。

また、快く参加していただいた菅野さんにはこの場を借りて、改めて感謝しかありません。
ありがとうございます!

だて部
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