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だて部の時間に収まらず、時間外に第一回目の疑問を質問しました。

まずはこちら。
「支倉常長が持ち帰ったローマ市公民権証書に、鉛筆でアンダーラインが引いてある箇所があり、
果たして政宗の仕業か、のちの学芸員の仕業か」

仙台市博物館の菅野さんにさらっとお尋ねしました。

「政宗とかが引いたものではないね」

学芸員が引いた証拠もありませんが、少なくとも時代が遡るものではありませんという話でした。


そういえば政宗の鉛筆書きの文書は残っていませんね。




甲冑の話も少し質問してみました


政宗の五枚胴は鉄であるが、なぜあえてあの形なのか。

「理由はわからない」「一種の復古調(関東の古い鉄の甲冑があります)かもしれない」
「政宗以前の甲冑が存在しないのも謎」

※菅野氏からの補足
「稙宗のものと伝わる桶川の五枚胴具足が紹介されている雑誌があるが、信ぴょう性は半々」

※部長の補足
輝宗の具足(愚息と変換された!まままさむね・・・)と伝わるものが青根の旅館にあるが、時代が違う都の意見も。
RIMG0001.jpg
「不忘閣」、ここは人生の中で一番いい温泉です。


甲冑を見せることにより、東北の鉄が良質である事をアピールする目的はなかったか?

「あるともないとも言い切れない」
「甲冑ではないが、日光東照宮に寄贈した鉄の灯籠がなぜ石ではなく鉄なのかを考えると、鉄の技術が高いことのアピールという話は少しは考えられるが・・・」


片倉小十郎景綱の甲冑はどこかに残っていないのか。

「ないです」





前回お題に上げた伊達家の経済の話は、部長が意識しながら色々見てはいるものの、
ズバリ「こうです」「これを見てください」
という結果にはいまだ至りません。
話が大きすぎるので菅野さんには質問しませんでしたが、関連する話として会の中で、
他家には多く残っている、大名以外の生活レベルの記録が伊達家には極端に少ないのだそうだ。
北条家は実に色々な文書が残っており、秀吉に攻められてこれから城を明け渡す瞬間まで、記録係が淡々と記録している、ということ。
北条家が好きになると、大名よりも名も無き人々が好きになってくると、参加者さんが熱く語ってました。

以前、伊達領内の材木に関わる文書が発見され、直接政宗や成実と係る内容ではないが、当時の彼らの動行を知る手がかりになると言われた事が今ようやく、そういうことの研究の積み重ねで初めて、背景が見えてくるのだと実感しました。

※補足あり。長いので別に記事書きます。


更に話を遡れば、稙宗の出した「塵芥集」。
ざっくり言えば法律のようなものですが、「塵芥集」が実際に使われたという記録が今のところ一切ないのだという、これまた驚きの発言!

夢日記?
稙宗が「こんな世界があったらいいなあ~」と言って描いた未来日記なのか!

といって、ひとしきり盛り上がっておりました。
生口制度


塵芥集が出来たのが天文5年といわれ、天文の乱が起こったのが11年。

記録がないだけで、使っていなかったわけではないと思いますが、さて。


といいつつも、タイムスクープハンターでやっていた塵芥集の「生口制度」は、伊達家は犯人探しはしないから、自分たちで犯人を探して来い、というお触れだった。
これなら記録に残りようもないのかしら??



※菅野氏からの補足
「ただ、塵芥集の中身そのものは、かなり伊達領の実態を反映している気配が濃厚・・・。
ということで、この塵芥集をどう考えるか、これは学界でも大きな疑問点になっているのです。」

この意見を単純に受け止めると、

困ったことがある、
なんとかせんといかん、
よし、決まり事をつくろう。

という流れなら、当時の困っていたことも書かれているという読み方も出来そう??
「戦国法の読み方」
早く図書館にはいらないかなあ・・・。


拙い質問にも丁寧にお答えくださった菅野さんに改めて感謝しております。

だて部

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